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続・私のこと
ブログを読んでくださりありがとうございます。
中垣工務店の中垣です。
前回に続き、私のこと を知っていただけたらと思い、今回は中垣工務店の歴史も交えてお話しします。
前回のブログ「私のこと」はこちら。
始まりは、私の祖父の中垣昭吉にさかのぼります。
祖父は昭和3年生まれで高山市国府町八日町出身です。中垣という名前は、恵那市や高山市の方に多いみたいです。
昭和18年15歳で岐阜市に出てきたそうで、戦時中で特攻隊に志願しましたが、昭和20年に終戦したので行かなかったと聞いたことがあります。
その後、昭和22年に岐阜市で大工業「中垣建築」を始め、住宅だけでなく社寺の仕事もしていたそうです。
祖父は、私が就職してすぐに他界してしまいました。大工として仕事をしている姿を見てもらえなかったことがとても残念でしたが、空から見守ってくれていたら嬉しいなと思っています。
私の父で、現会長の中垣雅詞は、父親である中垣昭吉の影響を受けて建築の道に進みます。
高校は、岐阜西工業(現岐阜総合学園高等学校)で建築を学び、時代の流れもあり、大きな建物を建築することに興味があり、ゼネコンに就職。中学校やビルなど公共の建物の現場監督として経験を積んでいきました。
ただ、公共の建物では直接お客様のリアクションを感じられなかったり、感動も少ないと感じたそうで、昭和55年に中垣建築に合流することとなりました。
当時の中垣建築では、下請け大工としての仕事がほとんどで、
その後元請になるのを機に、平成5年に中垣工務店に社名変更。
再スタートとなり、メインはリフォーム工事で切り盛りしていました。
父は、私が小さい頃は、釣りやミニ四駆など一緒に楽しんでくれて、特にアウトドアが好きでよくキャンプにも連れて行ってくれました。家族の中ではいじられキャラで、怒られたこともほとんどなく、やりたいことをやらせてもらっていたように思います。
建築の道をすすめられたわけでもなく、何も言われてなかったのに、自然と将来の夢が大工と思うようになっていてとても不思議です。
ただ、進路について唯一言われたことがあります。それは、父自身の経験からか、ゼネコンなど大きい建物を経験した方がいいとのことでした。
私は「大工になりたいから嫌だ」と即答した頑固者です(笑)
平成25年、私が中垣工務店に合流します。
当時は戸建賃貸の新築やリフォーム工事が立て込んでいたのですが、
その傍ら、自邸を建ててお見せしながら新築工事を伸ばしていきたいなと考えていました。
そして自邸で使う部材や商材やデザインなどいろいろ調べていく中で、R+houseと出会いました。
建築家が設計するデザイン性の高い住宅を高気密高断熱でつくりコストを抑えながら建てられる、なんてすばらしい仕組みなんだと思いました。
R+houseについてはこちら
私はもともと設計事務所が手掛ける住宅に憧れがあり、高校の同級生で設計事務所に勤めていた友人に独立して一緒にやろうと声をかけていたり、お付き合いのある大工さんが「設計事務所でこんな仕事したんだ」という話を聞くのが好きで、R+houseなら実現できると感じ、建築家の設計にワクワクが止まりませんでした。
さらに、その当時は高気密高断熱なんて言葉は聞いたこともなくて、2020年に省エネ義務化を国が目指していた時期で、快適性や光熱費を抑えられることなど、メリットを知れば知るほど、これからは高気密高断熱で建てない理由はないと感じ、メリットや価値のある住宅を提供できることが住宅会社として存在する意義なのだと思いました。
そしてR+houseを導入。大工上がりの工務店として、気密性や現場品質や管理を評価いただき、ベストクオリティ賞やベストエンジニア賞をいただけるまでに成長することができました。
ベストエンジニア賞についてはこちら
令和3年には、岐阜市日野にて社屋をオープン。それと同時に、私が代表取締役に就任。
「暮らしをつくる」
ただ家をつくるだけでなく、暮らしをつくること。
お客様の理想や多様なライフスタイルをカタチにし、
人生がより豊かになるよう、
寄り添い、守り続けていける、
そんな地域に根差した工務店。
を大切にし、日々精進しております。
またまた長くなってしまいましたので、「続・私のこと」は、「続・続・私のこと」に続きます。
自邸について書こうと思います。
中垣